日野市立百草台コミュニティーセンターのいのちのミュージアムは、廃校になった小学校の3Fをミュージアムにして、突然の事故や理不尽な形で命を絶たれてしまったかたたちの想いやその家族の方のメッセージがアート作品になって展示されています。
常設展も見せていただきましたが、何故がとても温かくて素敵で、居心地のいい空間でした。誰もいない時間を狙ってまた行きたいなと思っています。
いのちのミュージアム一周年記念で行われた生命のメッセージ展、自死遺族による講演を聞いてきました。
生命のメッセージ展とは犯罪・事故・いじめ・医療過誤・一気のませ等の理不尽に生命を奪われた犠牲者が主役のアート展です。犠牲者一人ひとりの等身大パネルはメッセンジャーと呼ばれ、その胸元にはハートと本人の写真や家族の言葉を貼り、足元には生きた証である靴を置いて、命の大切さを訴えています。このパネルは140名もありました。
今回は自死遺族(いじめやうつによって自分から命を絶たれてしまった方のご家族)の方お二人のお話を聞かせていただきました。
一人目は小森美登里さんのお話でした。娘さんの香澄さんは吹奏楽部でのいじめを苦に自宅で首吊り自殺をしました。高校一年生の15歳。7月27日のことでした。生きている私たちはすぐに、死ぬ勇気があれば生きればいいのにとか、弱いから死ぬんだとか、誰かに相談すればよかったのになどと勝手な私たちの思い込みで判断をしてしまいがちです。しかし、私たちのように香澄さんは考えられたのでしょうか?
いじめという問題は根が深いです。昔の様にガキ大将が弱い奴を守るなんてことはありません。今、いじめは表面化しにくく、隠れて、陰湿に続けられて行くのです。もし、いじめている子たちにやめようなんて言葉をかけようものなら、帰り道呼び出され、裸にされ、携帯の写真にとられてしまうそうです。こんなリスクを背負って誰が正義感など出して弱い子を守ろうとするでしょうか?
まず、この問題が解決しない理由です。第一に被害者責任論。いじめられる側にも責任があるっていうやつです。本当にそうでしょうか?いじめられている人に責任があるのでしょうか。強くならなければならないのでしょうか。理由なく被害者は被害者でしょう。
第二に文部科学省の体質の問題です。ここが本気でいじめと向かい合ってこなかった。いじめの対策をきちっと取ってこなかったことが問題だったのでしょう。
次に、問題を複雑化させている大人の誤解についてです。
第一に傍観者は被害者なのか?ということです。先ほど言ったように小さな正義感で自分の人生が崩れ落ちる様なことは誰だってしないでしょう。このことについて小森さんは傍観者も被害者だと言っていました。
また、第二にいじめられていることを言わないといけないと言いますが、いじめられている子というのは、家族といるときだけが唯一安心安全な場所で、ここだけは普通の自分でいたかった。いじめられているということで家族を不安にさせたくなたったという子が多いそうです。一日の大半を過ごす学校が苦しい場所となっている子たちにとって家族と居れる場所を壊したくないとい気持ちが強いようです。
その2に続きます。